『母性』ネタバレ考察!どっちが嘘?母と娘の食い違う記憶の真相と原作との結末の違いを徹底解説します

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湊かなえさんのベストセラー小説を実写化した映画[amazon_link product=”母性”]。鑑賞後、心に鉛を流し込まれたような、言いようのない「割り切れなさ」を感じたのは私だけではないはずです。

「愛能う限り、娘を慈しみ育てた」と語る母。「母に愛されたくて、でも突き放され続けた」と語る娘。この物語は、同じ出来事を見ているはずの二人の記憶が、あまりにも鮮烈に、そして残酷に食い違う様子を描き出します。

今回は、多くの視聴者が「結局どっちが本当なの?」と頭を抱えた、本作の核心に迫るネタバレ考察をお届けします。


証言の食い違い:なぜ記憶は180度異なるのか

この物語の最大の特徴は、母・ルミ子と娘・清佳の視点が交互に入れ替わる「信頼できない語り手」の手法にあります。

母・ルミ子の視点:私は「理想の母」だった

ルミ子の回想の中では、自分は常に献身的で、娘を深く愛する聖母のような存在です。義母からの執拗ないびりに耐え、健気に家庭を守る。彼女にとっての正義は「自分の母(祖母)に褒められる娘であること」でした。だからこそ、自分も「完璧な母」でなければならなかったのです。

娘・清佳の視点:母は「冷酷な女」だった

一方で、清佳の目に映る母は、自分を一度も直視してくれない、冷え切った存在でした。火事の夜、母が救おうとしたのは自分ではなく、祖母だった。ルミ子の微笑みは清佳に向けられたものではなく、背後にいる「祖母」に向けられたものだった……。清佳の視点では、母の愛は常に条件付きで、その本質は「拒絶」に満ちています。


【体験的考察】どっちが嘘をついているのか?

結論から言えば、**「どちらも嘘をついていないが、どちらも真実ではない」**というのがこの作品の残酷な回答です。

私たちが実生活で誰かと衝突したとき、自分の都合の良いように記憶を書き換えてしまうことは珍しくありません。本作はその人間の心理を極限まで増幅させています。

  • ルミ子の狂気: 彼女は「母親」になりたかったのではなく、いつまでも「愛される娘」でありたかった。清佳を愛している自分に酔うことで、亡き実母との繋がりを維持しようとしていたのです。
  • 清佳の渇望: 母の愛情を1ミリでも感じ取りたくて、逆に母のわずかな拒絶を「殺意」として受け取ってしまう。

この「噛み合わなさ」は、現実の親子関係でも起こりうる、非常にリアルで生々しい恐怖です。スクリーン越しに伝わる高畑淳子さん演じる義母の「嫁いびり」のリアルな質感も、この地獄のような空気感に拍車をかけていました。


原作と映画の結末:女子高生の正体と「その後」

原作[amazon_link product=”母性 湊かなえ”]を読んだ際に最も衝撃を受けるのは、冒頭の事件を起こした「女子高生」の正体を巡る叙述トリックです。

映画版では、ラストシーンで大人になった清佳が自身の妊娠を知り、母・ルミ子と対峙します。ここでルミ子が放つ一言は、和解のようでもあり、新しい「呪い」の始まりのようでもあります。

原作では、より冷徹に「母性は本能ではない」という事実が突きつけられます。母になれる女と、娘のままでいたい女。この二種類の女が螺旋のように連鎖していく終わり方は、映画版以上に「女という生き物の業」を感じさせます。


最後に:この作品が突きつける「母性」の正体

[amazon_link product=”母性”]を観て「胸糞が悪い」「不快だ」と感じたなら、それは作品の意図に正しくハマった証拠です。なぜなら、世間一般で美化されている「無償の母性」なんてものは、実は脆くてエゴイスティックな幻想かもしれないという不都合な真実を暴いているからです。

ルミ子のように「良い娘」であろうとしすぎて自分を見失っている人。あるいは清佳のように「母の愛」を求めて彷徨っている人。この映画は、そんな私たちの心の奥底にある、直視したくない「黒い感情」を鏡のように映し出します。

あなたは、ルミ子の微笑みを「慈愛」と見ましたか?それとも「狂気」と見ましたか?

その答えこそが、あなた自身の「母性」に対する価値観なのかもしれません。

次の方策として、原作と映画で大きく異なる「火事のシーンの細かな描写」の徹底比較や、湊かなえさんの他作品[amazon_link product=”告白”]とのテーマ的な共通点についてさらに深掘りしてお伝えすることも可能です。

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