1983年、日本のパーソナルコンピュータ史にひと際鮮烈な足跡を刻んだマシンがありました。エプソンのQC-10です。「コンピュータが日本語に恋をした。」という、あまりにロマンチックで、かつ野心的なキャッチコピーを覚えている方も多いのではないでしょうか。
当時、NECのPC-8801やPC-9801がホビーやビジネスの覇権を争う中で、QC-10(海外名:QX-10)は、それらとは全く異なる「思想」を持っていました。それは、コンピュータを専門家の道具から、誰もが言葉を紡げる「知的な文房具」へと昇華させる試みでした。
5インチFDDが刻む、起動の儀式
QC-10の電源を入れると、まずは2基搭載された5インチフロッピーディスクドライブが「ガリガリ、ガリ」と独特のシーク音を響かせます。この音こそが、システムが目覚める合図でした。
現代のiPadやMacBookのような静寂はありません。しかし、あの物理的な駆動音には「これから思考を記録するのだ」という確かな手応えがありました。標準OSとして採用されていたのは、当時の世界標準であったCP/M(Control Program for Microcomputers)。それにエプソン独自の日本語BIOSを組み合わせた「日本語CP/M」こそが、このマシンの心臓部でした。
「日本語を打つ」という、かつてない体験
当時のユーザーを最も驚かせたのは、その日本語処理能力です。QC-10はJIS第1水準漢字を標準でサポートしており、専用のキーボードは非常に打鍵感が良く、指に吸い付くような感触がありました。
ユーザーが語る「 Valdocs(ヴァルドックス)」の魔法
QC-10を語る上で欠かせないのが、統合ソフトウェア「Valdocs」です。
「当時のPCは、まずOSを立ち上げて、コマンドを打ち込んで、それからアプリケーションをロードするのが当たり前でした。でもQC-10は違った。キーボードの『EDIT』ボタンを押すだけで、すぐにワープロが起動する。今のiPhoneのアプリ感覚に近い直感性が、あの時代にすでに完成されていたんです」
このように振り返る当時のファンは少なくありません。HASCI(Human Applications Standard Computer Interface)と呼ばれる人間工学に基づいた設計は、メニューから選ぶのではなく、専用キーで機能を呼び出すという「道具」としての正解を提示していました。
画面の向こうに広がる、グリーンの宇宙
ディスプレイに映し出されるのは、目に優しいグリーンモニターの文字。高精細な4Kモニターを知る現代の私たちから見れば、ドットの粗い12インチの画面に過ぎません。しかし、暗闇の中で浮かび上がる緑色の漢字には、不思議な温かみがありました。
プログラミングを楽しむ層にとっても、QC-10は魅力的な相棒でした。日本語BASICが動作し、自分で書いたコードが日本語のメッセージを返す。それは、コンピュータという無機質な機械が、初めて日本人の「言葉」を理解し、歩み寄ってくれた瞬間だったのです。
時代を超えて語り継がれる理由
QC-10は、単なるスペック競争に明け暮れたマシンではありませんでした。それは、「いかにして人間がストレスなくコンピュータと対話できるか」という、UI/UXの先駆けとも言える哲学の塊でした。
現在、多くのレトロPCファンがエミュレーターなどを通じてQC-10の環境を再現しようと試みています。それは、単なる懐古趣味ではなく、あの時代の技術者たちが「日本語」という複雑な言語をコンピュータに吹き込もうとした情熱を、もう一度肌で感じたいからではないでしょうか。
QC-10が切り拓いた道は、現在の私たちが当たり前に使っている日本語入力環境の礎となっています。あのガリガリというディスクの回転音の先に、未来のコンピュータの姿が確かに見えていたのです。


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